戦艦大和といえば、「史上最強の戦艦 大和型戦艦の一番艦」「大艦巨砲主義の象徴であり最高傑作」など数々の異名があります。しかし、大和が誕生した頃には既に大艦巨砲主義から航空戦力へと時代の流れは移り代わっていました。ここでは戦艦大和が生まれた歴史的背景にクローズアップしてみます。時代に翻弄された大和の数奇な運命とは。
今でも史上最大の戦艦「大和」
戦艦大和が生まれたのは大和ミュージアムのある広島県呉市の旧海軍工廠。大和が造られた造船ドック跡(旧呉海軍工廠)は、この大和ミュージアム展望台から見ることができる。大和の特徴ともいえる主砲の口径や排水量は戦艦としては現在も世界最大級といわれている。戦艦「大和」は、全てにおいて極秘で建造された巨艦。総乗員数は3,332名であった。
戦艦大和誕生
ワシントン条約によって日本の戦艦保有数は不利な状況にたたされていた。アメリカやイギリスの6割と規定されていたのだ。そこで、旧日本軍は世界最大の主砲46cm砲を搭載した戦艦を建造するという「壮大な戦艦大和建造計画」をうちたて、量に対抗して質で勝負を図った。戦艦大和総工費は当時のお金で1億3780万円。国家予算の3%に相当した。
世界最大の主砲と防御力をもつ戦艦ではあるが、その能力のわりに小回りが効き、軽量化されていることなど技術的洗練度の高さも埃であった。この戦艦大和は、当時の最先端造船技術の集大成といわれる。
戦艦大和の運命と歴史的背景
しかし大和が建造された頃には、時代は皮肉なことに大艦巨砲主義から航空戦力へと移り代わってしまっていた。そのため、史上最大と謳われつつもその実力を発揮することなく、最期は特攻と命じられる。昭和20(1945)年4月7日沖縄特攻戦略で乗員3056名とともに大和は悲劇的な最期を迎える。
戦艦大和を生み出した技術は、その後も大型船やタンカーの製造などに活かされ、戦後の日本復興に大きく貢献してきた。大和ミュージアムでは、当時の様子や大和の運命などが資料とともに詳しく紹介されている。ミュージアムの戦艦大和模型の前にたたずむと、自分より年若い青年の命がこれだけ多くこの戦艦大和と運命をともにしたのだという戦争の現実と平和への思いが熱くこみ上げてくる。
呉市民として、ぜひ皆さんに訪れていただきたいのが呉市にある旧海軍墓地 長迫公園。ここには、戦艦大和をはじめ、たくさんの艦船の慰霊碑や個人碑があります。戦争について深く考える機会を与えてくれる場所です。
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